庸生氏は明治40年6月に勤務先の台湾総督府から「応用化学に関する事項の調査」の為ドイツに出張している。42年5月に帰国して間もない、明治42年9月に錠二の次女で、一廻り違いの文と結婚した。翌月、南満州鉄道株式会社からの命に依りドイツに留学が決まり、文は夫に伴ないベルリンに滞在する事になった。新婚旅行など一般的ではないこの時代ではまるで世界一周旅行に匹敵するほどの印象をもたれたようだ。往路は神戸・上海又は香港・シンガポール・マラッカ海峡を通り、コロンボ・インド洋を渡り、アーデン・紅海に入り、スエズ運河を通りポートサイド・地中海に入りマルセーユで上陸、列車でベルリンへ。錠二の場合はイギリスへの出張が多かったのでジブラルタル海峡、リスボン・ビスケー湾、ドヴァー海峡を通りロンドンのコースと思われる。復路は大西洋からクイーンズタウン、ニューヨークへ、大陸横断鉄道でシカゴ・ローッキー山脈を越えソルトレイク・シラネヴァダ山脈を越え、サクラメント・サンフランシスコ又はバンクーバーで船に乗り換え横浜へ。とするとまさしく世界一周となる。かつて櫻井錠二が度々通ったルートでもあるが、この二人のルートは往路は上海経由であるが帰路は、「シベリア鉄道」だったとの事。オリエンタルで若いカップルは相当人目を惹いたようで特に美しい着物姿の文は注目の的となったそうだ。後に娘達に度々楽しげに語られたそうである。そんな時、庸生氏は余りお気に召さいご様子だったとか、六女尭子氏から伺った。
新婚の文は使用人とドイツ語で話さなければならず、先生に付いてドイツ語を習ったが、ドイツ人の家庭宅に呼ばれるような事は殆ど無かったようだ。家では米飯にお惣菜という献立が主であったようである。明治43年父錠二が欧州出張中に、庸生氏宅へ一週間以上滞在した後、英国の美風も是非見せたいと文子を伴ない、20日間程ロンドンで生活を共にしている。ロンドン滞在が本人にとって大英帝国の繁栄振りを目の当たりにすることができ、短期間ながらも英語の勉強になり、どんなに幸せであったことかと錠二は語っている。ホテルでは不経済なため、かつて能登七尾で英語教育を受けた恩師オズボーンのお嬢様の紹介で、親娘で下宿に住み、錠二に同行して晩餐会などでにも出席している。「文子は存外に英語を解し、手持ち無沙汰のこともなくまことに好都合。ドイツなまりの英語で話し、相手も興味深く聞いてくれる。3.4ケ月もあればかなり達者に話すことも出来るようになるだろうに残念だ」と述べている。夫のベルリン留学中に妻だけロンドンで過ごす訳にも行かない事情であった。庸生氏がロンドンまで迎えに来る予定であったが、研究に忙しく都合がつかず、娘の一人旅を心配した錠二が乗換えのポイントまで送って行ったと記している。その後、留学期限到来の明治43年11月に二人は帰国した。 |